~銀婚を迎えた夏~ ⑰

要は情緒障害

河川敷にたたずみ、ひとしきり。

たまにはこうして陽に当たってぼんやり過ごすのも、それこそ、悪くはない気分だ。

 

子供が小さかった頃は、子供の外遊びを見守りながら ゆるい時間の流れの中にいたものだ。

 

子供が長じるにつれ、そんな時間は なくなっていった。

その分、仕事の時間を増やし、研修に足を運ぶことも多くなった。

 

これまで仕事上、情緒障害という言葉を何度か耳にしたことがある。

健一の特徴を大きく括れば、要は情緒障害だ。

 

そういえば、と、特別支援の児童生徒についての研修会での一場面を思い出した。

講師の言葉で印象に残っていたものがあったのだ。

 

自分の隣に立つひとは

それは、情緒障害と共に暮らす者が、自分の感情を失うという事例についてだった。

 

「情緒障害の人が自分のすぐ隣に立っていても、(自分と同じ感情を持つ)ヒトではないと思ったほうがいい。

 

ちょっと極端な言い方だけれども、そのくらい違うと思ったほうが良い」と。

 

 

「人として粗末にするということではなく、

尊重することを大前提としつつも、自分の中では、その切り替えが必要だ」と。

 

隣に立つ人間に対して、「ヒトじゃない」などと思うのは、

ずいぶん極端なもの言いにも思える。

 

でも、それを語った講師は、

慎重に、十分な配慮のもとにそれを発言していた。

 

差別ではなく、(必要な)区別であると。

 

それは自分の心、感情を健やかに保つために必要であると。

 

 

 

ふと顔があがり、中洲のむこうにある川の対岸が見えた。

 

グラウンドで野球を楽しむ少年らの姿が見える。

歓声が聞こえる。

 

「気づいて」取り戻す

私は、健一に対して「怒る」という感情を失っていたと思う。

つらいという気持ちにもフタをしていたような?

 

朝の探し物件で、娘から「どうしてお母さんは 怒らないの?」と言われていた。

私は怒っていいんだ、嫌な気持ちになっていいんだと、

最近、ようやく気づいたばかりだ。

 

自分の中の嫌な気分にちゃんと気づく、

それが大切なんだ。

 

「気づく」こと自体で、周囲に何か迷惑をかけるわけではない。

自分の中だけで、「気づこうとする」ことはできるはずだ。

 

失っていたものを取り戻すために、必要なプロセスなのだろう。

 

おかしいのは健一の方

「おかしいのは健一の方」、

ちゃんと そう思うことが今後の対応の入り口だと、

さきの手紙でも、そういう指摘があった。

 

そう認識しつつ、「嫌な気持ち」にちゃんと気づいていこう。

 

人気者の健一の異常を認め続ける

周囲の受け止めとは かけ離れた状態でのそれ、だけども。

 

これからも私は悩むだろう。

そして時々、この問題から目を背けたくなるかもしれない。

 

でも、何度でも気を取り直して、

また、その入り口から入れば いいのだろう。

 

それが、今後の私が たどれば良い流れなのだろう。

 

つらい思い

私は、自分がどこにいるのか わからなくなっていた。

進むべき道が見えなくなっていた。

 

その中にあって、道のようなものが見えてきたように思う。

 

これまで私は、「嫌な気持ち」になっても、

それに気づかないように自分を仕向けてきた。

 

「本当は自分がどう感じていたのか」に、

今、向き合っているんだ。

 

「嫌な気持ち」、

それは私にとって、つらいことだったはずだ。

 

改めて思う。私は「つらい思い」をしていたんだ。

 

凡庸

そしてふと、気づいた。

子らが健一の特徴を全く受け継いでいないと理解したとき、

自分の中に「残念」な気持ちが あったことに。

 

「凡庸」という言葉が浮かび、「残念な気持ち」が わーっと湧きあがっていたのだ私は。

 

それは ちょっとどころの分量じゃ なかったのだ。

 

 

情緒の障害など、

子らが受け継いでいない方が良いに決まっているのに。

 

引け目

健一は高名な音楽家からも、注目されていた。

 

その音楽家との懇談の席に妻の私が同席した際、

「夫婦揃って音楽に造詣が深い」や、「内助の功」などと言われがちだった。

 

健一の華々しい活躍に比べ、

私は自信を持って披露できるものなど、何一つなかった。

 

日本有数の音楽大学出身ではあったが、

演奏に特化した学科ではない。

鋭い視点で切り込んだコメントなどもできない。

 

また、話の流れで「お子さんたちも、さぞかし」などとも、言われた。

「良いご家族で」などと言われても、

そのたびに私は、凡庸な自分を情けなく思っていた。

 

誰かに責め立てられたわけでもないのに、

私はずっと、健一に対して引け目を感じていた。

 

私は、自分に不足があると、ずっと思ってきた。

 

健一と比べる自分は?

ただ、「引け目」を感じ続けている自分自身に、

何か違和感を覚える。

 

私は、子供の頃から、「もっと負けん気を持って頑張れ」とか、

「根性、意地」といった類のものが足りないと言われていた。

 

それに対して、「違うもん」だとか、「頑張ってるんだもん」とか思うこともなく、

自分のそういう一面を受け入れたままだったように思う。

言われるままに、「うん、そうかもな」「ま、いいでしょ」くらいのものだった。

 

だから、

優秀な健一に比べてどうとか、ライバル視?する側面が、

私に あった気がしない。

 

夫の高評価を笠に着るようなことはすまい、とは思っていたが。

 

凡庸でごめん

ならどうして、

こんなに自分を卑下するようになってしまったんだろう。

 

とにかく私は、

才能あふれる人気者の健一の妻に相応しくないのでは、と、

ずっと思い続けてきた。

 

子供たちは、私の凡庸さのみを受け継いだように見える。

 

凡庸な私でごめん、

凡庸な私達でごめん、

ずっと私は、そう思い続けてきたんだ。

 

「ずっとずっと、私は つらかったのだ。」

 

 

はらはらと涙。

二度目だ。

 

 

私の「つらい思い」、

その具体的な中身は、今、見えてきたけれども、

正直、全体像は ぼんやりしている。

 

その全体像は、とてつもなく大きく重たいような気もする。

 

たぶん、私はこれから何度も、こういう涙を流すのだろう。

 

 

でも、涙の色は、悪くはない色に思えた。

 

こうして流した涙の分、少しずつ、

「悪くない気分」を味わえる部分を

かさ増ししていけるのだろうか。

 

 

いしむら蒼

 

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