~銀婚を迎えた夏~ ㉘
健一は遅刻
今日の「音楽研究会KK」練習に、健一は遅刻。
団員が続々と到着しているというのに。
私は「ほんと、相変わらずで ごめんなさいね」と、
誰かが来るたびに口を開いた。
今日の練習で使う楽譜を、今朝の思いつきで準備に奔走するなど、
全く健一らしい行動だ。
でも、団員も今さら とやかく言うつもりもなく、
不満げな人もいない。
皆、笑顔を見せている。
健一は「(練習なりなんなり)なんかやってて」と
私に言ったものの、
誰かが先立ちになって練習する流れにはならない。
差し迫る発表の予定もないため、なおさら。
ということで、健一を待つ間、雑談が続いた。
祥子と明子
祥子が、
「明子姉さん、(転勤先での)新しい合唱団で活躍してるみたいよ」と言った。
祥子は私と職場での関わりがあり、
例の差出人不明の手紙を受け取った際に居合わせた同業者だ。
明子(あきこ)は祥子にとって叔母にあたるが、
年が近いため「姉さん」と呼んでいる。
明子は去年の春、転勤により「KK」から離れた。
それまでは けっこう長い期間、共に活動してきた。
転勤先は彼女の地元で、
今は、古巣の仲間と充実した音楽活動をしているようだ。
明子
ひとしきり、明子の話題になった。
明子の愛嬌たっぷりの人柄についてや
仕事柄転勤が多く かつて関西で働いていたこともあり、
ときおり関西弁が飛び出しては、皆を笑わせていたことなど。
九州に赴任したとき、「めんたいこ」と「明子」の読み方が一緒くたになり、
「めんこ」と呼ばれて以降、本人もそれを愛称として認め、「KK」でも そう呼ばせていたのだった。
「めんこ」さん活躍の報に、良かったねとメンバーが頷き合った。
そして、「こんなとき(健一不在時)、
めんこさんがいれば練習を進めてくれるのにね」、と真央が言った。
恵梨が「そうそう。全く、健一先輩ったら いつも こんな調子なんだから」と言い、
また、ゆるく雑談が続いた。
鏡の中に
練習会場の教会の廊下には、
大きな鏡があり、
そこに映った人物が私の目に入った。
一瞬、誰だろうと思ったが、
服装、位置関係からして、
自分である。
でも、そこにあったのは醜悪な顔だった。
すぐに目を そらした。
他の人からは見えない角度で、映り込んでいた自分の表情は、
見たこともないものだった。
加齢による劣化とか疲れたとか、不機嫌とか、そういうものじゃない。
自分じゃない、
それどころか人間なの?そんな感じすら受け、
鏡から目をそらしたまま、戸を閉め それを封じた。
そして、気を取り直して 雑談に加わった。
健一が到着するも
健一の遅刻は、1時間に及んだ。
智之が、自分のパートソロから始まる曲を なにげなく口ずさんだのを きっかけに、
皆がその既習曲を歌い始めた。
そしたらまもなく、健一が息せき切って礼拝堂に飛び込んできた。
健一の歌声による旋律が絡まり、いつもの「KK」の音空間が広がった。
健一からの遅刻のお詫びやら言い訳やら、
そして皆からの(笑顔交じりの)苦情の応酬を経て、
今日のメインの曲目に取りかかろうとすると、
祥子が、
今日は自分の都合で1時間しか参加できないからと、
申し訳なさそうに席を立った。
祥子を見送り…
私は出口に向かう祥子に駆け寄り、
「そもそも、健一が1時間も遅刻するのが悪いんだから」と、
声をかけた。
祥子の いつもの笑顔を見届けて、席に戻る際
また、さっきの鏡が目に入った。
今度の自分は、いつも通りの表情だ、が…
それとは別に、安堵している自分に気づいた。
この安堵は何についてだろう。
自分の感情に違和感を覚える。
もしや、祥子がいなくなって、ほっとしている?
私が?
私は実は、祥子を疎んじているのか?
いしむら蒼
“サイコパスの妻 1-㉘ ありえないもの” への1件のフィードバック