~銀婚を迎えた夏~ ㉙
内心の安堵
祥子が早退すると聞き、
私は、遅刻した健一のせいで中途半端な練習になってしまったことを詫びようと、
祥子に駆け寄った。
これまで私は、
健一がマイペースすぎることについて
「あんなんで ごめんなさいね」と、
いろいろな場面で口にしてきた。
今回も同様で、私の足はすっと動いた。
でも、その流れとは別の自分がいるようで、
私は、自分の中の、
祥子の不在に際する内心の「安堵」に気づいてしまった。
あの「差出人不明の手紙」を受け取って以降、
「初めて自覚する感情の浮上」に気づくことが多い。
ありえない
私は祥子を疎んじている?そんなはずはない。
ひと懐っこい笑顔につられて、
笑ってしまったことが何度もあるのに?
遠くから手を振って駆け寄って来る祥子を可愛らしいと思い、
気分が沈みがちなときでも明るい気分になれると
嬉しく思ったりしていたのに、
そんなのありえない。
祥子は同業者で大学の後輩だ。
親しみを持っていてこそあれ、疎んじるなど!
醜悪な顔
そういえば さっき、祥子の(年の近い)叔母にあたる明子の話題になったとき、
鏡に映った私の顔は醜悪だった。
強い嫌悪感、
それどころか二度見したくもないくらい
恐ろしい表情だった。
私は祥子を疎んじてる?
それどころか明子を嫌っているのか?
私が?
明子のことを思い出そうとすると、
なにか自分の中がぼんやりしている。
かなり長い間、共に過ごしてきたはずの明子なのに、
顔をはっきり思い出せない。
思い出したくない、そんな気すらしてしまう…?
まだいるの?
明子は20年…、
そう、20年以上の間、一緒に歌った仲間だ。
創立当初こそ不在だったが、
健一に次ぐ存在感があり、
音楽づくりにおいても大きな貢献があった人だ。
たった今、当時の思い出を皆で話し、
ひとしきり盛り上がったのだ。
なのに、ちゃんと思い出せない?
なにか頭を後ろに引かれるような感覚に襲われ、
私は立ち止まってしまった。
そして突如、自分の中に ある言葉が浮上した。
それは、「まだいるの?」だ…!。
それは、暗い、自分の奥の方から出てきたような言葉だった!
誰?!
意味不明。
私は自分の奥深くの得体のしれない何かに衝撃を受け、
恐れをなした。
これって誰の感情?私の感情なの?
「私って誰なの?」
またもや、意味不明な言葉が思い浮かんだ。
自分の気持ちに向き合うなど、
とうてい できないと思った。
自分の奥の あまりのどす黒さに、
自分の中には「なんらかの罪を犯すほどの禍々しさ」があるように思えた。
得体のしれない洞窟
私は、祥子や明子を疎んじている?
彼女らが私に悪いことなど していないはずなのに?
突然自覚した負の感情。
自分が人としてとんでもないことを考えているような気がして いたたまれなくなり、
用足しを装って礼拝堂を出た。
この気分、そう、この「得体のしれない洞窟の前に立ち尽くしてしまうような気分」は、
二日前、家で健一が「KK」の録音を聴くと言ったときに、
いきなり襲われた「不快感」と共通するものがあるように思える。
いしむら蒼