~晩夏 サヴァン ~ ⑥

「情緒の森」はジャマ?

「情緒の森」にジャマされず、

開けた視界で 物事の本質が見えるとすれば、

成果を上げるためには 情緒などない方が良い?

 

情緒など 無駄なものなのか?

 

健一が突出した能力を見せる理由が、

「情緒の森」の欠落のせいだとするなら、

 

てっ取り早く成果を出したいなら、

情緒など(人への共感など) ない方がいい?

 

極端に考えてみると、

そういう乱暴な考えも 浮かんでしまう。

 

何にも代えがたい固有

人はたいてい、成功者に憧れる。

 

私自身も そうだ。

 

成果を上げたい、能率良く結果を得たい、

合理的に物事を進めたい、

そして、迷ったり回り道をしたくないとも思う。

 

でも、改めて考えると、どうなんだろう。

 

仮に「情緒の森」に視界をふさがれた結果、

非能率を招く…だとしても、

視界をふさぐ「情緒」は、不要なはずがない。

 

なぜなら…。

 

情緒は「そのひと」だけのものだから。

 

そのひと固有のもので、

何にも代えがたいもの だと思うから。

 

能力の伸長と情緒の醸成

能力の伸長と情緒の醸成は、

ある意味、相反するという記述を

何かで 目にしたことがある

 

(健一のような情緒にゆがみを持つような人間でなくとも、

豊かな情緒も輝かしい成果も、

その両方を手にしてる人は いると思うけれども、

一般論として)。

 

 

実際、

身近な人物に、それを思わせる例がある。

 

高い能力を 周囲に知らしめることがなくても、

でも、なんとなく安心できる持ち味の友人がいる。

 

かたや、鋭い切り口で ものごとを分析し、

短い時間で何事も さばいてしまうけれども、

仲良くなれそうもない知人も いる。

 

正しさよりも…

大方の人(私も含め)は、

輝かしい成果に 気をとられがちだけれども、

それへの興味やら「追いたい気持ち」は、

いつもいつも、自分の近くに在るわけではないような。

 

「関心事」として 更新されていくけれども、

それを追うことに 疲れることもある。

 

最近の自分を 改めて思い返してみれば、

結局 私は、

疲れることから離れていたことに 気づいた。

 

次々と更新されていく

「他者による成果への憧れ」や

「ものごとの正しさ」よりも

 

「感情のやりとり」の方が、

自分に じんわり沁みていたように思うのだ。

 

「まわり道」こそが

「情緒」は、

それぞれの人となりの元になっている、

大切なものだと思う。

 

この世に生まれ、経験を積み、

何かを育み生きている、そのひとだけのもの。

 

一見、まわり道に見えたとしても、

固有の通り道は誰にも替えられないもの。

 

むしろ、その「まわり道」こそが、

そのひとの「人となり」を創り上げるのでは。

 

対称的な具体例

合理性、正しさ、成果、有能さ、美しさなどを、

あっさり極めることができる人を 天才と呼ぶなら、

健一はそれなのだろう。

 

そして、私や私の子供たちは、

そのくくりには 入らないと思う。

 

以前 子供たちについて考えたとき、

「凡庸な私達でごめん」みたいな感情が湧き上がったことを 思い出した。

 

天才と凡人、

つまり、健一と私達母子?

 

対称的な具体例を あげればそうなるのだろうか…。

 

 

 

いしむら蒼

 

サイコパスの妻 2-⑦ 私の通り道