~銀婚を迎えた夏~ ㊳

早まった出立日

健一の海外出張の話が出てから、

慌ただしい日々が続いた。

 

取るものもとりあえずといった状況になった。

 

というのは、8月出発のつもりでいたものの、

先方の事情変化と、先発隊にキャンセルが出たことによる調整で

渡航が早まったからだ。

 

今月中に出発となってしまい、

「KK」メンバーで壮行会をやる話も出たし、

子供らも一緒に三世代一緒に集まる計画も練ったが、

 

どれも実現できないうちに

出発日間近となってしまった。

 

買い込む戦法

夫婦共同作業で、バタバタと支度を進めた。

いつもであれば、「あれがない、これはどうした」と、

見当たらないものを私のせいにする健一だが、

 

必要物は探すよりも買い込む戦法でやりすごした。

 

「カネがあれば(現地で買って)どうにかなる」と、

健一父子は、バタバタと旅立って行った。

 

ひとりきり

あまりに慌ただしかったため、

今後しばらく「ひとり暮らし」になるということを、

見送り後の帰宅の途について 唐突に自覚した。

 

「寂しくなるね」と周囲から言われていたが、

さっきまで、そんな感じは全くないまま過ごしていた。

 

子供らからも、心配されていた。

 

大丈夫だと応えたら、

「(今までお父さんに合わせてばっかりだったから)

この機に、お母さんの好きなように模様替えしたら?」、

などと娘。

 

そんなやりとりをしていても、

今の今まで、

本当に「ひとりきり」になる実感が なかったことに気づいた。

 

結婚してから初めての過ごし方が、これから始まることになる。

 

思い出のかけら

帰宅した。

夏の午後だというのに、あまり暑さを感じない。

 

人けのない家の中は不自然な静けさがあり、

冷蔵庫のモーター音のみが聞こえる。

 

家のそこかしこに、子供らとの思い出のかけらがある。

 

ハイハイしたての息子が階段を登りたがり、

設置した柵が次々と破られたこと、

 

一緒にお菓子を焼いたとき、

半ナマの生地を舐めとってしまった娘がお腹をこわしたこと、

 

つまずいた私が洗濯物を引っ張ってしまい、

一気に全部が外れたあげく風に持っていかれて 戸外に落ちて、

泥まみれになったこと…。

 

ひとりきり

子供たちが大学進学で巣立ったとき、

子供との思い出の残像が私に迫った。

 

特に今年の春、

娘を送り出した直後は、帰宅するのが憂鬱だった。

 

「母じゃなくなった自分」が、

家のあちこちで 立ち尽くしてしまうから。

 

でも今は、この春とは違う。

 

たしかに、

子らの不在で夫婦のみになったことと、

今、自分一人きりになったことは違う。

 

でも、それとはまた、何かが違うのだ。

 

ゆっくりと

私は ゆっくりと家の中を歩いた。

こんなにゆっくり歩を進めるなど、人生初めてかもしれない。

 

前に進むようでいて、止まりながら、

それでいて すり足のようではあるけど、

前進している。

 

暮らし慣れた家の段差に阻まれることなく、

足は少しずつ、ちゃんと進む。

 

今まで意識していなかった

天井や壁の上部が目に入る。

 

こんなところに 小さな蜘蛛の巣があったんだ、

などと思いながら。

 

ゆっくりと。

 

いしむら蒼

 

サイコパスの妻 1-㊴ 思い浮かぶのは