~晩夏 サヴァン ~ ④
下積みもなく
地道な練習や勉強の成果が出て、
これまでには不可能だったことが、
突如、可能になるということは あると思う。
それは、積み重ねた努力があってこそのこと。
かたや 健一は、
特別な訓練なしで これという下積みもないままで、
それを成せる。
なぜそうできるかというと…
追い求める境地が あっさり見えてしまうからではないか。
「常に最短距離」で すぐそこに見える。
緊張もなく、迷いもなく、
「まっすぐ」に手が届いてしまう…。
人間くささ
緊張や迷いは、
とても人間くさいことだと思う。
人間関係のなかでのそれは特に。
人間関係は、
人を迷わせ、悩ませることが多々ある。
けれども、マイナスのことばかりではなく、
それを経た上での 大きなプラスもある。
子供の頃、
友達とケンカしたあとに仲直りをした経験は
誰でもあると思うが、
その温かさの共有は、他の場面では得難い、特別なものだったと思う。
ケンカして仲直り、
それによって、一層、友達が近くなったと思えたものだ。
仲直りって、いいもんだよね
そういえば、健一は、
そんな心の動きを感じたことがあるのだろうか?
私と結婚してから、健一と友人との間で、
ケンカと仲直りに近い状況を 傍から見たことはあったけれども、
感情が伴った気がしないものだった。
健一は、相手との議論での自説の正しさを強調していたが、
悲憤のような感情が見られなかった。
一年以上経ってから 相手からの和解の申し出があったときも、
淡々としていた。
「仲直りって いいもんだよね」と、
子供らと頷きあっても、健一からの反応はなかった。
そして、その友人との交流は、
淡々と復活した。
感情のやりとり
健一は、
人の気持ちを置き去りにして進んでしまうことが多かった。
それは、新しい何かに興味を持ったときに、
常に起こることだった。
常に起こるそれ…
要は共感力の不足、
情緒障害というくくりに入ると、
改めて思う。
健常者はたいてい、
共感などを通して 他者と感情のやりとりをしていると思う。
そしてそれには、様々な種類のものがあって、
良いことばかりとは限らない。
嫌悪や嫉妬を伴うこともある。
人間関係は、とかく もつれたりしがちだ。
誤解が誤解を生むこともある。
争いごとになってしまうと、
それは いばらのように絡みつき、
人を疲弊させる。
情緒の森
ちょっとした疑心などは、たぶん、
どこにでもある。
他者のちょっとした表情、声色から、
自分がなにか粗相をしたかもしれないなどと思うのは、
しょっちゅうあることだ。
そんな些細なことは、私達の周囲にあふれていると思う。
人との関りは、
すっきりとは わりきれないものだろう。
私たちは、そんな中を、
無駄足をしたり、
回り道をしたりしながら、
周囲との人間関係を築いて暮らしている。
人はそんな感情の在りか、
情緒の「森」のようなものを持っていると思う。
ときには いばらのように絡みつき、
ときには その茂みに身を委ねて安堵したりの。
くぐり抜ける森
となれば、健一には、
健常者のような「情緒の森」が少ない、
もしくはない?
ならば、「くぐり抜ける森」がない分、
すっきりと「求めるもの」が目の前に見えているのではないか。
緊張にも迷いにも阻まれることなく
すっきりと。
もしかすると それが 健一の場合の「サヴァン症候群」の成り立ちなのか??
なんらかの情緒障害と共に現れると言われているそれ。
あの差出人不明の手紙にあった
「サヴァン」という言葉が、
一気に現実味を増した。
いしむら蒼
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