~晩夏 サヴァン ~ ⑦

面倒見のいい応援者

娘は、健一について、「子供みたい」と言っていた。

世間から有能視されていることを知ったうえで。

 

父親に比べて自分は劣っているなどという思いは ないようだ。

 

息子は、以前は健一に対し、

「期待に応えられなくてごめん」という気持ちがあったようだが、

今はそんな様子は感じられない。

 

「お父さんは自由にさせておけば ちょうど良い人」、という、

少し遠くに置いた受け止めになったようだ。

 

そして二人とも、そんな健一に対する私について

「面倒見のいい応援者」だと思っているらしい。

 

比較に囚われて

健一の周囲には、豪華な人脈があふれている

(ただ、健一自身、そんな豪華人脈をひけらかすことはない。

ただ、健一の友人知人が、

それに憧れ、群がってはいるが)。

 

以前、健一ファンである彼らと会食した際、

「ご家族もさぞかし」と、

「才ある者」視されたことが、つらかった。

 

私は豪華な人脈をまぶしく思い、

自分が凡庸だと沈み、

「比較すること」にばかり囚われていたと思う。

 

私が私自身を

でも、

健一に比べて自分は、

健一周囲の成功者達に比べて自分は…と、

比べては意気消沈など、

自分で自分を沈めているようなものだ。

 

「健一は“私”を見ていない」そう思ったことが何度もあった私だが、

「他者と比べて意気消沈」しているなど、

それでは、「私が私自身を見ていない」ことになると気づいた。

 

そして私は、娘や息子をも、

ちゃんと見ていなかったと思える。

 

自分なりの通り道

子供たちは、

自分なりの通り道で、経験を積み重ねている。

 

それが近道だろうが遠回りだろうが、

彼ら自身の大切なもの。

 

それ自体が、大きな意味のあることだと思う。

 

「凡庸な私達(母子)で、ごめん」

などと考えていた自分を 恥ずかしく思った。

 

そんな卑下したような感覚を抱いていたことを、

情けなく思う。

 

私が健一に引け目を感じて生きてきたことは、

自分が思う以上に、私を蝕んでいたのだろう。

 

私だけの

娘や息子は、

「自分なりの通り道」を、

すでに、自然に、健全に、受け止めている気がする。

 

それぞれに成長している。

 

そして、それによる豊かな情緒を育んでいると思える。

 

我が子らを、たくましく思う。

誇りに思う。

 

遅ればせながら私も、

自分の経験、思い、

自分なりの積み重ねを大事にしていこう。

 

それが遠回りだったり、寄り道ばかりだったとしても、

私だけの通り道なのだ。

 

大切に育てていこう。

 

 

まもなく、

今日の仕事先の学校に到着する。

 

私に新しい景色を味わわせてくれた

海岸ドライブが終わる。

 

白い海鳥が 私の車に沿うように飛んでいる。

 

その鳥が風に乗り

南の方へ分かれて行くのを目にしながら、

私は大きくハンドルをきった。

 

 

いしむら蒼