三善晃作品は私の灯台
三善晃の女声合唱
最初に出会った「麦藁帽子」から、私は三善晃の世界に はまり込んだ。
三善晃の曲には、私の目を見開かせてくれるような魅力がある。
その固有の煌めきに、視覚、聴覚、皮膚感覚 そっくり ごっそり
持っていかれるような…。
そして、三善晃の曲は、私が追い求める「音」を忘れそうなとき、
それを思い出させてくれた!
迷子になったとき、灯台のような役割を果たしてくれるのだ。
また、触媒のような作用も感じられるのだ。
ピアノ曲でも そうだが、特に強く感じられるのは、女声合唱のピアノパートだ。歌いながら弾く それ(クチが複数あったら全パート歌いたいが、いっこ しかないので主旋律を)。
“触媒”と表現したのは、三善の曲になると演奏技能が上がることを実感できるから。
ピアノでは、運指能力が上がった実感が訪れる。
歌では、他の曲では出せなかった高音も、曲の流れの中であっさり出せたりした。
言葉と音が ひとつのまとまりとなって、弧を描き緩急を作り出し、
それが歌の流れを後押しし、高い音程へも押し上げてくれるエネルギーを感じるのだ。
なんで伴奏?
練習曲として、(ペダルなしで)バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトを練習することが多い私だ。
トレーニング用の音列として、筋トレ的練習に役立てた(はたで聴く人からすると曲と認識しにくいが、私の中では、曲として成立している)。
でも、数週間ほど経つと、むしょうに弾きたくなるのが、三善晃の女声合唱ピアノパートなのだ。
「なんで伴奏?」と自問自答しつつも。
人前で弾く予定もないし(・.・;)、弾いて披露する場を求めているわけでもないのに(´・_・`)?
自宅で弾く三善
ちなみに、私は、ずっと合唱活動を続けてきた。
その環境、仲間に恵まれて、本当に良かった。
所属合唱団では、指揮者が指示するパートを歌った。
どのパートもそれぞれに楽しかったが、特に、ア・カペラ内声で和声音を探って歌うことに やりがいを感じていた。
伴奏担当という席への こだわりもない。
先輩や合唱仲間が弾いてくれるピアノと共に歌うのは、楽しい。
そして、それとは別に、自宅では三善を弾いた。
誰に聴かせるということもなく、それこそ「なんで伴奏なんだっけ(。-_-。)」と思いながらも…。
先生のピアノと共に歌った時間
所属合唱団で三善晃の女声合唱を歌っていた頃があった。
10代から20代にかけての数年間。
伴奏の担当者は、大学時代、私に“「歌う指」が人間ワザで可能なんだ”と示してくれた恩師だ。
この合唱練習の時間もまた、ピアノレッスンの時間と同様、「歌う指」による演奏を聴きまくれる時間だった。
光を放つような音列を存分に味わいながら、歌ったものだ。ものだ…ものだ…(未練)。
音楽は、その いっときいっときの音の紡ぎ合い。
あの日あのとき、あの場所で、あの仲間と共有した音は、二度と味わえない。
録音録画で再現できるものじゃない。
音楽に求める「煌めき」、また、量の多少はあれども、日常の暮らしの中にも ちょっとした煌めきが(音楽以外にも)あったりする。
日々を生きることに伴って 手のひらですくいあげた煌めく粒は、
指の隙間から こぼれ続ける。
すくってはこぼれ、すくってはこぼれていく。
手元に残る粒を補充(?)するかのように、あの日の煌めきを、音の調べと共に思い出す。
それが、人生を豊かにしてくれていると、私は思う。
共に生き、寄り添ってくれる「音楽」は
私に、なんど反芻しても色褪せない「まなび」を、与え続けてくれている。
“私を育ててくれたのは3―②「麦藁帽子からの」” への1件のフィードバック