半世紀前の「不合格」と先生の範奏
合格印をもらっていいのだろうか
「この50年余り」の始まりの頃をふりかえってみる。
ピアノ教室に通わせてもらい、易しい練習曲から始めて徐々に難易度が上がっていくという経過を経て、運指能力を身につける…。
私もその道筋をたどっていた。
先生から合格をもらうたび、前進できる喜びを実感した。
あるとき、(ブルグミュラー教則本のどれかの曲で)先生が合格印を楽譜につけようとしたとき、
私は、待ったをかけてしまった。
そして、先生の けげんな表情をよそに、練習期間の延長を申し出たのだった。
自分の演奏に合格を出せない、まだ、この曲との関りを終えてはいけない、
当時の自分の気持ちを言葉にすると、そういうことだったと思う。
半世紀前の不合格
そして追加練習をしたものの、1~2週間かそこらの延長では自分に合格を出せる演奏には届きっこない、と早々に実感した。
そして、「一生同じ曲を練習するわけにも いかないしな」と思ったことを、はっきり記憶している。
バイエルやツェルニーの曲にも、一部に「歌」を思わせる曲はあったが、ブルグミュラー曲集では「歌」を味わえる曲ばかりだった。
なのに、自分の演奏は全然、歌にならない。
ブルグミュラーの豊かな歌心を表現できるようになるまでには、膨大な道のりがあると、当時の私なりに認識したのだろう。
それから50年余り経った。
今、半世紀の時間を経てやっと私は 自分に、まもなく、「合格」と言ってやれる!
そして、当時のハナタレガキんちょだった自分に、
「あなたが出した“不合格”は正しかった」と
「あなたが目指したものが 実を結ぶときが来る」と、
そう 言ってやりたい!
先生の豊かな音
小学4年の頃、ピアノの先生が替わった(それまでお世話になっていた先生の旦那様に)。
新しい先生は、よく、範奏を聴かせてくれる先生だった。
範奏を聴かせて指導するか、敢えて範奏は最小限にとどめるか、どちらが良いかについては意見が分かれるところだと思う。
が、私にとって、範奏を聴くのは大切なことだった。
同じピアノなのに、先生が出す音は力強く、豊かだった。
レッスンのたびに、先生の音を真似た。
自宅練習でも、真似た。
力強いタッチで練習し、敢えて少し緩めてみる。
すると、豊かさの幅も拡がるように思えた。
そして翌週、先生と同じくらい豊かな音になったつもりでレッスンに臨んだ。
でも、先生の音には かなわなかった。
私は、先生が奏でるピアノの音が大好きだった。
以降ずっと、強いタッチでの確実な運指を目指し、先生の豊かな音を反芻して練習を重ねた。
“歌うシワシワ指が できるまで②「合格印を」” への1件のフィードバック