クラシック音楽
選曲というより、流れのまま
クラシック音楽については、縁あって自分の手元に来た「楽譜との出会い」そのままに、その楽曲に触れることが ほとんどの私だ。
自分から楽譜を買い求めることもあるが、割合は少なめ。
ピアノ教室での教則本から始まり、様々な時代、傾向の作品に触れたが、
私はまだ、演奏修行を終えていないため、その曲との出会いを生かせていない。
ひと通り弾き終えた曲であっても、「表現できた気分」には程遠いままだ。
音符の並び
縁あって目の前に現れた楽譜、音符の並び。
その曲についての周辺情報を知ることは楽しいし、研究考察を示してくれる専門家には頭が上がらない思いだ。
ただ、正直なところ、作曲家が誰であるか、タイトルが何であるかは、私にとっては副次的なことだ。
研究の深まりにより歴史認識が変わるように、今味わっている曲についての重要情報が変わったとしても、
なんなら作曲家が別人だったとしても、それも曲の味わいにバリエーションを もたらしてくれるとすら、思える。
ブルグミュラーからの
私に出会ってくれた曲たちは、私をそれぞれの世界に連れて行ってくれる。
ブルグミュラー、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハ、ショパン…。
ただ、未だ、曲たちからの言葉を表出できていない私だから、
正直、学ばせてもらっている内訳について、今の私は具体的に語ることができない。
でも、これからもずっと、出会い直しを重ねていき、なんらかの学びを更新していく気、満々。
傍らに居続けてくれる曲たち
未熟な私の目の前には、曲を知ることについても演奏することについても、未開拓な世界が広がっている。
でも、傍らに居続けてくれる曲に育ててもらいながら、進んでいきたい。
どの作曲家の音楽についても、「味わう」も「究める」も、その中身、目標は、何度も様変わりしていくだろう。
これからも ずうっと、その途上にあるだろう。
思い通りに表現できる運指を手に入れてからも。
ただ、それらとは別に、
現時点の私に特別なものを もたらしてくれる作品は、ある。
それは、三善晃の作品だ。