月夜の晩にボタンを拾う

月を見上げて口ずさむ…

三善晃の月夜三唱

三善晃の合唱曲のうち、自分の中で、こだわりの強さにおいて別格なのは、中原中也の詩による女声合唱組曲「月夜三唱」だ。

私のバイブルと言っていいほど、特別な曲だ。

 

夢とうつつを行き来するような全体像のなかでの、深い内省、疾走感。

 

無性、それどころかヒトではない何かが無邪気に遊び、

人の世の矛盾?無常?割り切れない何かを昇華してくれるかのような…。

 

この曲を歌い弾くとき、私は、非日常との境目を味わうような気分になる。

 

三善晃と中原中也

上記、ゆらゆらと私が埋没する世界観は、中原中也によるものと三善晃によるものと、が一緒になって私に迫ってくる。

私の中では、両者の放つものが相乗効果をもたらしつつ、時空を超えた広がりを感じさせてくれる…そんな印象だ。

 

三善作品、中原作品、それぞれ単独だったり、別の作家と創り上げたものにも感銘を受けることはある。

 

が、この二人の組み合わせとなると、私にとって特別すぎる作品だ。

 

その理由を言葉にしようとすれば、できなくはない。

 

でも、多岐にわたりすぎて、また、その時々で印象が変わって、急に単純になったり複雑になったり…。

要は、なぜこんなに惹かれるのか、未だによくわからない、そういうことだろう。

 

弾き語りもどきのピアノ練習

合唱ピアノパートを練習する理由は、三善作品の特定の曲が好きだという以外に、もうひとつある。

 

筋トレばかりの味気ない練習では、欲求不満が溜まってしまう。

 

歌にならない自分のピアノの音を、無理やり歌にするには 自分が歌うのが手っ取り早い。

また、自分の歌声で音楽をつなぐには、合唱ピアノパートを弾くのが最適の方法だ。

 

弾き語りもどきのピアノ練習。

歌とピアノを絡めた セルフアンサンブル。

筋トレばかりで、歌にならないピアノの音を自分の中で歌に変換しながらのそれ。

 

合唱活動を継続できたことにより、自分の自宅での練習をも 支えてもらえたと思っている。

 

無限ループ?

そうして、ひとしきり「セルフアンサンブル三善」にハマる期間が続くと、また、「歌いたいけど歌い切れていない現実のつらさ」が、新たな側面から立ち上がる。

そうするとまた、古典派中心の練習に戻る…の繰り返しで、現在に至る。

また、また、の、無限ループ。

 

「私を育ててくれたのは」 さいごに

こういう生い立ちで、こういうものを見聞きして育ち、誰ソレから影響を受け…。

人は皆、そういう貴重な歴史を持ち、更新していくものだと思う。

 

ことさらに、自分語りをエンエンと続けることに、これでも気恥ずかしさを覚えたりするが(今さら?!)、

これを読んでくださり、付き合って下さった方に感謝します!