~銀婚を迎えた夏~ ⑬

認めたくない堂々巡り

健一は、妻の気持ち、子の気持ちへの共感は なかったように思える

(ここに至っても私は、認めたくない堂々巡りに陥りがちだ)。

 

健一は、結婚、子育てを経験していても、そこに気持ちの交流を求めてはいないのか?

 

では何を求めて、私と結婚したのだろう。

そして、子育てしたのだろう。

 

「人として」の経験を得るため?

 

 

違和感の かけら

そういえば、健一が仲間に、「人として通る道」を勧める場面を見たことがある。

私たちの子供のあどけない様を見て、「癒されるぅ」と発した女性に、

「子供はいいよ~。○○さんも、自前の癒しを得てみては(笑)」と言っていた。

 

独身女性に対して、子供産んだら?と勧めたわけで、今であればセクハラまがいの発言だ。

 

 

「健一は有名音楽大学と結婚したんだ!」と声高に言った知人がいた

(私は著名な音楽家を輩出している音楽大学の出身だ。

演奏に特化した学科ではなく、楽理研究の学科であるが、

大学名だけで演奏のプロを目指していると思われがちである)。

 

私という一個人ではなく、出身大学の肩書めあてと強調されたように思った。

健一がその知人に同様の意味で話していただろうと思われる流れだった。

 

 

幼少時の息子に健一は、煙草の煙を息子の顔に吹きかけたことがあった

(驚いてすぐに制止した)。

 

一度きりで終わったが、「雑菌に耐性をつけるべきだ」と健一は言った。

今から思えば、ただの気まぐれだったと思う。

息子の免疫力増強のためなんかじゃない、今ならそう言い切れる。後付けで理屈を言っただけ。

 

 

これまでの25年あまりの間に、違和感の小さなカケラが 私の脳裏にいくつも残っていたことに、改めて気づいた。

次々と浮かび上がるそれ。

 

夫は私を見ていない

周囲から愛妻家だと 言われたりする健一。

 

出張では必ずお土産を買ってきてくれるし、銀婚祝いの記念品など、贈り物も もらった。

 

SNSには挙式当時の晴れ姿を載せていた。「妻には感謝しかない」などと添えているが、

その文章を目にした私には、正直、「またか」という思いがあった。

祝いのコメントが次々と寄せられている。

「ちゃんと奥さんに直接言いなよ!照れ屋なんだから」なんて、からかわれている。

 

“照れ屋”などと言われがちなことに、私としては違和感しかない。

だって、それは、私を見ての行動じゃない気がするから。

 

そう、健一は私を見ていないんだ。

 

お土産もプレゼントも

出張土産として もらった帽子も香水もスカーフも、私には似合わないものが多かった。

 

でも健一は、それらの丁寧な扱いを要求し、

粗末にしたと思いきや、

わざわざ知人の前で反省の弁を言わされたこともある(一見、冗談込みの座興に思える)。

 

 

銀婚祝いのペンダントをもらって嬉しかった。

けど それも、その注文を部下に代行させていたことを、

最近、知った。

 

○○ごっこ

そういえば ケンカしたとき、「あなたは私を見ていない」という言葉を何度も放った私が、すでに いた。

 

言葉通りの意味だが、これまでは もっと浅い意味で言っていたと思う。

今になって その深さを思い知った。

 

健一は、私なんか見てなくて、

「妻に贈り物をする できた夫」だと言われたいだけなんじゃないか?

 

おままごとの○○ごっこ。

伴侶を大切にするごっこ、子を慈しむごっこ、

子供の成長を喜ぶごっこ

 

「人として」「結婚し、子を育てる」そのシナリオの一部に、

私も子供らも配置されているだけ。

 

妻である私は夫の世間体を ゆるぎないものにするための添え物(良くてアクセサリー)で、

子供たちは ただの骨太なオモチャだったのだ。

 

この25

私はカウンセラーを生業にしている。

悩み事対処の専門家だ。

 

でも今 私は、自分の足元が見えない。

 

先日の怪文書の中にあった見たくもない言葉には、既視感があるように思う。

 

夫について、他の人と違うと思ってはいた。

ADHDかもしれないと、脳裏をよぎったことはあった。たしかにあった。

 

そして、それどころじゃないかもしれない とも。

 

でも、周囲に認められ親しまれている健一。

ちょっとくらい世話のやけることがあるとしても、自分がそれをフォローすればいい、

自分じゃなきゃできないんだからと、

ずっと思ってきた。

 

皆から愛されている健一と共に人生を駆け抜けることは、

新鮮な感動を伴い、楽しいことだったから。

 

そうして、それと同時に次々と更新される 夫についての

「要フォローネタ」

を追いかけるだけで、25年経ってしまった。

 

 

 

私は実は、怪文書に書かれていることについて、すでに全部わかっているのかもしれない。

ずっと、気づかないふりをしていただけで。

気づこうとしなくて、

気づきたくなかっただけで。

 

 

心の問題の専門家だというのに!

 

 

涙がにじむ。

そして、堰を切ったように次々とあふれた。

はらはらと涙を落とすとは、こういうことなんだ。

 

 

 

 

運転中なのに、涙で視界がぼやける。

 

そうこうしているうちに、1時間も早く目的地に到着した。

 

今日の派遣施設の少し手前にある展望所に車を停めた。

観光地らしく、眼下に開ける景色は素晴らしい。

海面に反射する朝陽がまぶしい。

 

アラームをセットし、ひと眠りすることにした。

眠れるのだろうかと思ったが、

泣いた後だからか、すぐに寝入ってしまった。

 

 

 

無機質なアラーム音で目を覚ました。

自分がどこにいるのかを認識するまで、少し時間がかかった。

 

長い夢を見ていたような気分だ。

 

仮眠をとる前は 仕事に気持ちを切り替えれるか不安だったが、

意外に深く眠れたようで、やけに すっきりした気分だ。

仕事に支障はなさそうだ。

 

というか、むしろ、自分の中が浄化されたような気分で、

いつもよりも仕事が はかどりそうな勢いだ。

 

車から降り、歩きながら思った。

 

「今日、あの手紙(怪文書)を読むことにしよう。」

 

 

いしむら蒼