不出来な弟子のその後

続いちゃいます…

思い出に育てられた日々

大学時代の先生の元へ、就職してからも 習いに行っていた。

が、私は、いつまでも成果を出せない、不出来な弟子だった。

 

バツが悪かった。

 

何が どう不足なのか分析もできず、説明も できなかった。

 

その自分像の色の鈍さは、忙しさや居住地の距離の遠さに紛れていった。

転居・仕事や家庭の都合から 先生の元に足を運ぶ機会が徐々に減り、バツの悪さも手伝って 関わりが途切れてしまった。

 

でも、レッスンで耳にした音、先生の言葉のひとつひとつを反芻し、

練習を続けた。

 

先生との思い出は いつまでも鮮やかに在り続け、

それが、ずっと私を育て続けた。

 

ひょっこり訪れる進歩感

もう無理かな、辞めてしまおうかな と思っても、

そこそこ日数を経た頃に ひょっこり訪れる進歩感があった。

 

もし、この たまに味わえる「ひょっこり進歩感」がなかったら、

私は、目標としたものをあきらめただろう。

 

誰にも その喜びを共有してもらうことは なかったが、

私はその「ひょっこり進歩感」に励まされ、ピアノを続けることができた。

 

間隔が空いても、2~3週間ほど経つと 進歩を実感できたおかげで、

40年近くの期間 継続できたのだ。

 

出口ってあるんだろうか

時々訪れる「ひょっこり進歩感」はある。

でも、目標は相変わらず、遠いままだった。

 

山の何合めにいるのかすら 不明。

 

ひょっとすると、遠すぎて一生分でも時間が足りないのかもと、

不安になる。

 

そもそも、大学時代の先生には出来ても、自分には不可能なのだろうか。

何か決定的な不足があって?

 

でも、辞めてしまおうかと思っても、

また、「ひょっこり進歩感」が訪れる。

 

が、進歩はあっても 到達はない。

 

 

反比例のグラフのように、永久に座標軸に近づいても、

永久に到達しない?

 

 

 

 

一生、ずっとこのまま?

 

 

歌うシワシワ指が できるまで⑧/12「遠い」